愛情路線 2012年1月18日
「原発問題の昨今について、徒然に書くね」
ツイッターのタイムラインを見たあとに、新聞とかを読むと、明らかに時代というものの間に「乖離」が存在している、と感じる。
たとえば、日本人の多くが今回の事故を受けて「原発は怖い」と思っているのは明らかなんだけど、それを口に出せないばかりか、出してもなんか遠慮しているというのか、同時に、「脱原発」行動を積極的にしている人を、やや引いた目で見ているような傾向がある、ような気がする。
たとえば、最近気を付けて注視しているのが、山本太郎さん。震災後、彼が中心になって(と言ったら言い過ぎかな)何か「脱原発」のジャンヌダルク的役割を担って、行動力のある彼が一つの象徴のような感じで、先頭に立ってデモ行動とかとっている映像を、割と自分は希望的に見ていたのだけど、ここにきて、やや注意して見るようになった。
それは、本来、あれだけの事故があって、放射能がなかなか消えない現在、欧州のような国民的盛り上がりで行動がなされるべきはずなのに、むしろ、不可思議なことに、日本はその逆の方向へと向かいつつあるような感じを受ける。たとえば人々の山本太郎さんを見る目の変化が気になる。「脱原発」がある種のアレルギー現象を日本に持ち込み始めているような、そういう奇妙な、まだぼんやりとだけど、きな臭い匂いさえ感じるのだ。
ご本人も、自分は反日極左テロリストと呼ばれている、とツイートしていたけど、このことは笑っていられないというのか、そのイメージが「原発は怖いなあ」と思っている人々へも不思議な広がりを見せ始めていて、山本太郎=異端分子的なイメージで「脱原発」運動が単純にくくられはじめようとしている、もしくはそこを利用しようという動きがあるような、気がするのだ。これも、風化現象の一つなのか・・・。
年末、12月。渋谷ハチ公前で行われていた「原発の是非を問う都民投票」の署名会場に顔を出した。あまりに閑散とした雰囲気に愕然とした。人は数え切れないほどにいる。横断幕もあるし、マイクで呼びかけている人もいる。なのに、人々は無関心にというのか、振り返ることさえなく、次々素通りしていく。これは、危険だ、と感じた。署名運動やデモ行進に国民が慣れていないにしても、あまりにかけ離れている。ちょっと待てよ、と危機意識のベクトルがこれまでとは違う方へと動いた瞬間でもあった。
数日前のこと。映画監督の岩井俊二さんが、その都民投票に反対する理由を、もしもそこで負けてしまったら、脱原発が封印されてしまうのじゃないか、というようなことをツイートされていた。実際、この程度の盛り上がりでは勝てるわけがない。もし負けたら、そこで流れは一気に推進のムードへと傾きかねない。都民投票の重要性は認識しつつも、成熟していない雰囲気の中で、の投票がはたして有効なのか、疑問を感じる。(もちろん、本当は国民の声で、原発から離れられる世界が出来ればいいと個人的には思っているよ)すぐれたプロデューサーが不在で、だらだらと政府の思うつぼに流されている印象を感じる。
この間、茂木健一郎さんと人間塾の後、原発問題について話をしたが、彼の考えが、「分からない、苦しい」と迷いながらも、しかし科学の未来を閉ざさない方向も一方で必要なのじゃないか、クリアなエネルギーをどうやって確保するのか、というような発言であった。その時、何故か、自分は子供っぽく動揺してしまうのだ。
日本はあれだけの事故を経験し、広島、長崎の過去も経験しているのだから、当然、流れは国民総意で脱方向か、と思っていた。世論調査では当然、脱方向なのだが・・・。その認識の甘さをつかれた格好となった。ドイツ、スイス、イタリア、スペイン、は舵を脱原発に振ったのだし、当事国である日本も当然そちらに舵取りするだろうと思っていたのに、いっこうに日本丸は動いていない。むしろ、大きなうねり、流れにじりじり流されている感じ。それはきっと、この世界の政治的経済的な枠組みという流れによるものであろう。
それだけにとどまらず、脱原発運動がこのままでは異端運動に見なされていくような、なんだろう、不確かな胸騒ぎを覚える。昨日の山本さんのツイートに、みんなで楽しく参加しよう、という一文があった。その「楽しく」という単語が心に鈍く引っかかった。山本さん的には長期戦に備えて気長にやるために頑張ろう的な、また、多くの若い参加者を意識しての発言だったに違いない。けれども、その意図に反してこのささやかなお祭り参加型の呼び掛けが、或る種のアレルギーの芽を国民に植え付け始めているのだとしたら・・・。これは心配性人間の杞憂だろうか。
新聞やネットを見ているだけでは、日本がどこへ向かっているのか、本当の方向が見えないし、分からない。冷温停止宣言が12月に出て、年が明けて、何か日本はもう大丈夫、というような風潮が、世界的に広がりつつある。フランス人でさえも、日本は復興したとつぶやき始めている。日本人の多くは政府の宣言を白い目で見ているのは間違いないが、政府の宣言は国民の頭上を通り越して、世界中へ向けた原発推進プロパガンダとなりつつある。日本は原発事故を抑え込んだ、というような印象だけが、一人歩きを始めている。ここは気を付けないとならない。推進とか反とか脱というカテゴリーのマジックに騙されていては、よくないということに気がつく必要がある。けれども、分かりやすい行動指針として、脱とか反という言葉の直截的な役割があることも理解できる、いや、あったのだろう。どこかのタイミングで、範疇をもっと広げる必要性があるのかもしれない。
ちなみに、ガイガーカウンターで東京とパリを計測し続けているが、どちらもほぼ同じ放射線数値であった。SOEKS社製計測器を使いこなしていないからか、それともマルクールの事故などに関係があるのか、チェルノブイリの影響だろうか。単純に比較できないことも分かっているが、大切なことは個人的にであろうと研究し、注意し、耳を傾け、何よりも自分で考え、知ろうとすることだろうと思う。素人の行動だと揶揄されたとしても。
原発さえなければ、と思う。では、その穴をすべて化石燃料で埋めた場合、温暖化の問題などはどう解決するべきか。七〇億もの人間が風力や太陽光エネルギーだけで本当にやっていけるのか。そもそも、地球は人間が好きだろうか。人類にとって苦しく、重い問題である。けれども、この十字路で立ち止っている時間もない。そして今がもっとも危険な場面なのかもしれない。狡猾な勢力はつけいるすきを狙っている。